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第5話 国外逃亡

last update publish date: 2026-10-10 13:45:55

第5話 国外逃亡

 ノクシア使節館の空気は、先ほどまでより明らかに重くなっていた。

 机の上には、王都北門から送られてきた出国制限申請書が広げられている。書面そのものは簡素だったが、そこに記された一文一文が、ミレイアの足首へ見えない鎖を巻きつけているように思えた。

 婚約破棄契約に関する重要関係者につき、調査終了まで王国外への移動を禁ずる。

 申請者はローデン侯爵家。

 正式な神殿命令ではない。それでも侯爵家ほどの家格が国境管理局へ申請すれば、少なくとも事情確認が終わるまでは門を通れなくなる。

「これ、カイラス本人が申請したのでしょうか」

 ミレイアは書面を見たまま尋ねた。

「署名はローデン侯爵本人だ」

 アルドリックが答える。

「カイラスではない」

「お父上……」

 少しだけ、胸の奥がほどけた。

 それに気づいて、自分で嫌になる。

 カイラスが自分を捨てる選択をしたことは変わらない。それでも、彼自身が逃げ道まで塞ごうとしたわけではないと分かって安堵してしまう自分が、まだどこかにいる。

 人の気持ちは、決意を一つしたくらいではきれいに切り替わってくれないらしい。

 アルドリックはそんなミレイアの顔を見ても何も言わず、申請書の末尾を指した。

「問題はここだ」

「神殿の副署?」

「ああ。ローデン家単独の申請なら、俺の使節団に同行する君を止めるには少し弱い。だが月神殿の副神官が『調査への協力が必要』と追認している」

「昨日、証人欄に名前があった副神官ですか?」

「同一人物だ」

 ミレイアはゆっくり顔を上げた。

 昨日の破棄契約書には、証人として月神殿の副神官が署名していた。その同じ人物が、今度はミレイアの出国を止める書面に名を連ねている。

「偶然にしては、できすぎていますね」

「俺もそう思う」

「では、私を国内に残して、何をしたいのでしょう」

「君が昨日見つけたものを、これ以上掘らせたくない可能性はある」

「でも、私自身にも能力のことはまだよく分かっていません」

「それでも、相手はそう思っていないかもしれない」

 アルドリックは紙を畳まなかった。

 むしろ、何度も読み返している。

「自分でも正体の分からない力を持つ人間というのは、使う側からすれば扱いづらい。だが隠したい側からすれば、もっと厄介だ。どこまで見えているのか判断できないからな」

 その言い方に、ミレイアは無意識に指先を握った。

「私、そんなに危ない立場なのでしょうか」

「今のところ、そこまで断定はしない」

「今のところ、ですか」

「安心させるためだけの嘘は言わない」

「分かっています」

 もう少し柔らかく言えないのだろうかと思う反面、その率直さに救われてもいる。

 アルドリックは机の脇に控えていたグレンへ視線を向けた。

「北門以外は?」

「西門と東門にも同文の申請が回っています。南門だけ、まだ正式受理前です」

「早いな」

「ローデン侯爵家が夜明け前から動いていたようです」

 ミレイアは思わず眉を寄せる。

「私がノクシアへ行くと決めたのは、つい先ほどです」

「つまり、君が俺の国へ行くかどうかに関係なく、国外へ出すつもりがなかったということだ」

 その事実が、妙に不気味だった。

「昨日の時点で?」

「おそらく」

 アルドリックは椅子から立ち上がる。

「出発を早める」

 グレンが即座に頷いた。

「本日ですか」

「一刻以内」

「承知しました」

 あまりにも話が早く、ミレイアは立ち上がりかけて止まった。

「待ってください」

 二人が同時にこちらを見る。

「今日、出るのですか?」

「ああ」

「まだ何も準備していません」

 アルドリックの視線が、部屋の隅に置かれた二つの旅行鞄へ向く。

「荷物はある」

「これは家を出るための最低限です。外国へ移住する準備とは違います」

「足りないものは向こうで買えばいい」

「そういう問題ではありません」

「では、何が必要だ」

 あまりに実務的に聞かれ、ミレイアは逆に言葉に詰まった。

 外国へ行く。

 しかも、いつ戻れるか分からない。

 普通なら、親族へ挨拶する。身分証明を整理する。季節に合った衣類を用意する。必要なら侍女を雇う。少なくとも家族へ行き先くらいは知らせる。

 だが、自分はつい今朝、その家を追い出されたばかりだ。

「弟に……連絡を」

「それはしたほうがいい」

 アルドリックはあっさり頷いた。

「手紙を書け。使者を出す」

「よろしいのですか」

「なぜ駄目なんだ」

「急いでいらっしゃるので」

「十分程度なら待てる」

「十分……」

「長いか?」

「むしろ短いです」

「では十五分」

「陛下は何でも数字で解決しようとなさいますね」

 言ってから、少し失礼だったかもしれないと思った。

 しかしアルドリックは怒らず、肩を僅かにすくめた。

「曖昧なままよりいい」

「そういうところは、少し羨ましいです」

「君も昨日からずいぶんはっきり物を言っている」

「昨日までは、あまり言わないようにしていました」

「なぜ」

「言っても相手を困らせるだけだと思っていたからです」

「今は?」

 ミレイアは少し考えた。

「言わなくても、私が困ると分かりました」

 アルドリックの口元が僅かに緩む。

「それは進歩だ」

「褒められている気がしません」

「褒めている」

 やはり分かりにくい人だった。

 十五分後。

 ミレイアはルイス宛ての手紙を書き終えた。

 内容は簡単にした。

 ノクシア王国へ行くこと。

 自分の意思で決めたこと。

 心配しなくていいこと。

 借りた金は必ず返すこと。

 最後の一文を書いた時、弟なら「そこは書かなくていい」と文句を言うだろうと思い、少しだけ笑った。

 封筒を閉じ、グレンへ預ける。

「確実にお届けします」

「お願いします」

「ご家族には?」

 少し迷った。

「ルイスだけで結構です」

「承知しました」

 父には知らせたくなかった。

 母には少し迷った。

 けれど結局、書かなかった。

 母が心配することは分かっている。

 同時に、その手紙が父の手へ渡り、自分の居場所や予定がローデン家へ伝わる可能性もある。

 そんなふうに家族を疑わなければならなくなったことが、思った以上につらかった。

 使節館の裏庭には、すでに六台の馬車が並び始めていた。

 外交使節団の移動にしては急だったらしく、騎士や従者たちが忙しく荷物を積み替えている。

 ただ、不思議なほど混乱はない。

 誰かが声を張り上げることもなく、それぞれが自分の役割を理解して動いている。

 アルドリックの姿を見ると、全員が一礼した。

「通常の帰国予定は三日後だったのですよね」

 ミレイアが尋ねる。

「ああ」

「私のせいで変更させてしまって、申し訳ありません」

「君のせいではない」

「でも」

「変更を決めたのは俺だ」

 アルドリックは歩きながら答える。

「それに、もともと式典後の外交日程はほぼ終わっていた。三日残る理由は社交上の付き合いくらいだ」

「それも大切なのでは?」

「大切だ。だが優先順位はある」

 その言い方に迷いがない。

 ミレイアは少しだけ羨ましかった。

 自分はいつも、何を優先すべきかより、誰を怒らせないかを先に考えていた。

「陛下」

 グレンが近づいてきた。

「南門へ向かう道に、ローデン家の騎士がいるとの報告です」

「人数は?」

「確認できた限り十二名。ただし街道にも待機している可能性があります」

 ミレイアの足が止まった。

「騎士まで?」

「驚くのは後だ」

 アルドリックの声が低くなる。

「グレン、表門から通常通り出る。王家の旗も隠すな」

「よろしいのですか」

「こそこそ逃げれば、こちらに非があるように見える」

「しかし、衝突の可能性が」

「俺たちから剣を抜くな。向こうが抜いた場合のみ対応しろ」

「承知しました」

 グレンはすぐに離れていった。

 ミレイアはアルドリックを見る。

「本当に行くのですか」

「行く」

「ローデン家の騎士がいるのに?」

「いるから止まるのか?」

「普通は、少し考えませんか」

「考えた結果だ」

 アルドリックはそこで立ち止まり、ミレイアへ向き直った。

「一つ確認しておく」

「はい」

「今ならまだ、君は残ると言える」

 言葉が少し意外だった。

「出国制限があるからですか」

「違う。ここから先、俺の使節団とともに国境へ向かえば、君がノクシアへ行く意思を公に示したことになる。後から『連れ去られた』と言われる可能性もある。だから今、君自身の意思を確認する」

 ミレイアは少しだけ黙った。

 残れば安全なのだろうか。

 少なくとも今日すぐに騎士たちと揉めることはない。

 だが、ローデン侯爵家はすでに自分の出国を止めようとしている。月神殿もそこへ加わっている。

 なぜ。

 何を隠したいのか。

 そして、自分の中に芽生えたあの能力は何なのか。

 知りたい。

 怖いけれど、知りたい。

「行きます」

 今度は迷わなかった。

「ノクシアへ」

 アルドリックは一度だけ頷いた。

「分かった」

 馬車は予定より一時間も早く使節館を出発した。

 ミレイアが乗ったのは、アルドリックの王車ではなく、そのすぐ後ろを走る客人用の馬車だった。

 同乗しているのは、年配の女性官吏と護衛の女性騎士の二人。

 女性官吏はイレーネと名乗り、ノクシアの外交文書を担当しているという。

「少しでも気分が悪くなったら言ってくださいませ」

 イレーネが膝掛けを差し出す。

「ありがとうございます。でも、馬車には慣れています」

「それは何よりです。陛下の馬車は速いので」

「速い?」

「かなり」

 嫌な予感がした。

 その予感は数分後、見事に当たった。

 王都を抜ける大通りへ出た途端、馬車の速度が一段上がったのだ。

 舗装された道とはいえ、車輪が石を拾うたびに座席が揺れる。

 ミレイアは窓枠へ手を添えた。

「皆様、いつもこの速さなのですか」

 女性騎士が少し困ったように笑う。

「陛下が急いでおられる時だけです」

「今日は、かなり急いでいらっしゃる?」

「はい」

「私のせいでしょうか」

「それを申し上げると、陛下に叱られます」

「やはり私のせいなのですね」

「申し上げておりません」

 真面目な返しに、ミレイアは少しだけ笑った。

 それも長くは続かなかった。

 南門が近づくにつれ、街道沿いの人通りが減っていく。

 そして門楼が見えたところで、馬車の速度が落ちた。

「何かありましたか」

 女性騎士が窓の外を確認する。

「止められたようです」

 前方に、複数の騎馬兵が並んでいる。

 濃紺の外套。

 胸元にはローデン侯爵家の紋章。

 狼の横顔と槍。

 ミレイアはその紋章を、何度見てきたか分からない。

 いずれ自分もその家の一員になると思っていたからだ。

「お待ちください」

 女性騎士が外へ出ようとする。

「私も――」

「ミレイア様は車内に」

「でも、私の問題です」

「だからこそです」

 穏やかだが、譲る声音ではなかった。

 ミレイアは仕方なく座り直した。

 窓越しに外を見る。

 先頭の馬から降りた男には見覚えがあった。

 ローデン侯爵家の騎士団副長、ハーゲン。

 カイラスの幼少期から護衛を務めてきた男だ。

 何度も屋敷で顔を合わせたことがある。

 厳しいが、悪い人ではなかった。

 だから余計に胸が痛んだ。

 前方の王車からアルドリックが降りる。

 グレンがすぐ横につく。

 ハーゲンも兜を脱ぎ、礼をした。

「ノクシア国王陛下。大変失礼とは存じますが、この先へお進みいただく前に確認したいことがございます」

「何だ」

「ミレイア・セレス嬢が、使節団に同行していると聞いております」

「いる」

「彼女には現在、出国制限の申請が出ております」

「知っている」

「でしたら、引き渡しをお願いいたします」

 その言葉を聞いた瞬間、ミレイアの背中が冷たくなった。

 引き渡し。

 まるで自分が犯罪者のようだ。

「断る」

 アルドリックの返答は早かった。

 ハーゲンが困ったように眉を寄せる。

「陛下。これは我が国の国内問題です」

「ならば正式な拘束命令を出せ」

「現在、手続き中です」

「手続き中のものを理由に、他国の使節団を止めるのか」

「ミレイア嬢だけをお戻しいただければ、使節団の通行を妨げる意図はございません」

 アルドリックは何も言わず、数秒ハーゲンを見た。

 その沈黙に耐えられなくなったのか、ハーゲンの表情が硬くなる。

「本人の意思は確認したのか?」

「何でしょう」

「ミレイアが戻りたいと言っているのかと聞いている」

「それは……」

「聞いていないな」

 ハーゲンが答えられない。

 アルドリックは馬車へ視線を向けた。

「ミレイア」

 呼ばれた。

 女性騎士が一瞬迷ったが、ミレイアは扉へ手をかけた。

「出ます」

「お気をつけください」

 外へ降りると、朝の風が思ったより冷たかった。

 何十もの視線が集まる。

 ハーゲンはミレイアを見ると、一瞬だけ痛ましそうな顔をした。

「ミレイア様」

「お久しぶりです、ハーゲン様」

「このような形でお会いしたくはありませんでした」

「私もです」

 それは本心だった。

「どうか、戻ってください」

 ハーゲンは声を落とした。

「侯爵閣下も、あなたを害したいわけではありません。昨日の件は、神殿できちんと調べる必要があります。今国外へ出れば、余計な疑いを招きます」

「どんな疑いですか」

「それは……証拠を持ち出すとか、外国へ情報を渡すとか」

「私は証拠を何も持っていません」

「承知しています。しかし、世間はそうは見ない」

 どこかで聞いた言葉だった。

 世間がどう見る。

 父も同じことを言っていた。

 ミレイアは少しだけ悲しくなった。

「カイラスは、このことを知っているのですか」

 ハーゲンの目が僅かに揺れる。

「若様は……」

「知らないのですね」

「今朝から侯爵閣下と話し合っておられます」

「それは、知っているとは言わないでしょう」

 ハーゲンは返事をしなかった。

「私は戻りません」

「ミレイア様」

「昨日までなら、戻ったかもしれません」

 自分でも、その通りだと思った。

 父に命じられれば従った。

 カイラスから頼まれれば、理由を聞く前に我慢した。

 ローデン侯爵から家のためだと言われれば、きっと納得しようとした。

「でも今は、自分で行くと決めました」

「ノクシアへですか」

「はい」

「知らない国でしょう」

「だから行きます」

「それは理由になりません」

「私にはなります」

 ハーゲンは困った顔をした。

「あなたを長く見てきました。こんな無茶をする方ではなかった」

 ミレイアは少しだけ笑った。

「私も、昨日まではそう思っていました」

「ミレイア様」

「ハーゲン様。お願いです。私を犯罪者のように扱わないでください」

「そのつもりはありません」

「なら、道を開けてください」

 ハーゲンの表情が苦しくなる。

 彼は命令を受けている。

 個人的にはミレイアを傷つけたくなくても、騎士団副長として侯爵の命令には従わなければならない。

 その葛藤が見えてしまうから、責める気にはなれなかった。

「申し訳ありません」

 ハーゲンは低く言った。

「それはできません」

 背後で、剣の鞘がわずかに鳴った。

 ノクシア側の騎士が緊張したのだ。

「剣を抜くな」

 アルドリックが言う。

 一言で、気配が止まった。

 彼はハーゲンへ向き直った。

「もう一度聞く。正式な逮捕状か拘束命令はあるか」

「ございません」

「出国制限申請は?」

「受理手続き中です」

「つまり現時点で、彼女を強制的に止める法的根拠はない」

「ですが侯爵家の要請が――」

「要請は命令ではない」

 ハーゲンが黙る。

「それでも止めるなら、ノクシア王国使節団への実力行使と見なす」

 空気が一気に張りつめた。

 ミレイアは息を呑んだ。

「陛下」

「黙っていろ」

 声は強くなかった。

 けれど今は、昨日の応接室で冗談を言っていた男とは別人だった。

 王として立っている。

「ミレイアは俺の保護下にある客人だ。本人が同行を望んでいる以上、法的根拠のない私的命令で引き渡すつもりはない」

「……陛下は、この件を外交問題になさるおつもりですか」

「しているのはそちらだ」

 ハーゲンの顔が強張る。

 数秒の沈黙。

 長く感じた。

 やがてハーゲンは、ゆっくりと目を閉じた。

 そして後ろの騎士たちへ手を上げる。

「道を開けろ」

「副長!」

「正式な命令がない以上、これ以上は止められない」

「しかし侯爵閣下が――」

「責任は俺が取る」

 騎士たちは不満そうだったが、やがて左右へ分かれた。

 道が開く。

 ミレイアはほっと息を吐いた。

「ありがとうございます」

 ハーゲンへ頭を下げる。

「礼を言われることではありません」

「それでも」

 ハーゲンは何とも言えない顔をした。

「若様には、私から伝えます」

 ミレイアの胸が少しだけ痛む。

「何を?」

「あなたが、ご自分で行くと決めたと」

 ミレイアは頷いた。

「お願いします」

 馬車へ戻ろうとした時だった。

「待ってください!」

 後方から馬の蹄の音が響く。

 皆が振り返る。

 一頭の馬が、王都側から全速力で近づいてくる。

 騎手の姿を見た瞬間、ミレイアは足を止めた。

「カイラス……」

 彼だった。

 礼装ではなく、普段の乗馬服。

 髪も乱れている。

 馬が止まるより先に飛び降り、こちらへ駆けてくる。

「ミレイア!」

 息を切らしながら、カイラスは彼女の前まで来た。

「何をしているんだ」

「ノクシアへ行きます」

「聞いた」

「なら、何をしているかは分かるでしょう」

「そういう意味じゃない!」

 思わず強い声が返ってきた。

 カイラス自身も、少し驚いたようだった。

「父上が出国を止めたことは、今朝知った。俺はそこまでしろとは言っていない」

「そうですか」

「それだけか?」

「では、何と言えばいいのですか」

「少しくらい……」

 カイラスは言葉に詰まった。

 何を求めているのか、自分でも分からないのかもしれない。

 安心。

 感謝。

 それとも、まだ自分の言葉がミレイアへ届くという確認。

「帰ってきてくれ」

 結局、彼はそう言った。

 ミレイアはじっとカイラスを見る。

「どこへ?」

「セレス家へ……いや、それが無理なら俺が場所を用意する」

「昨日、補償は受け取らないとお伝えしました」

「補償じゃない」

「では何ですか」

「俺だって、お前を放り出したままにしたいわけじゃない」

 その言葉に、胸の奥が鈍く痛んだ。

 優しい言葉だった。

 だから、残酷だった。

「カイラス」

「何だ」

「あなたは、私にどうしてほしいのですか」

「……」

「ヴィオラ様と婚約する。でも私は近くにいてほしい。住む場所もお金も用意する。そういうことですか?」

「そんな言い方をするな」

「では、どういう意味なのか教えてください」

 カイラスは答えられなかった。

 ミレイアは少しだけ悲しくなる。

 きっと彼自身も、まだ整理できていない。

 自分から捨てた。

 でも本当に失うとは思っていなかった。

 番なのだから、どこかで繋がっているつもりだったのかもしれない。

「私、行きます」

「ミレイア」

「これはあなたへの当てつけではありません」

「なら、なぜ外国なんだ」

「私にできることがあるかもしれないからです」

「何を言っている」

 カイラスの目が揺れる。

「昨日のあの能力のことか?」

「はい」

「まだ本物かどうかも分からないだろ」

「だから確かめに行きます」

「ノクシアは能力主義の国だぞ。獣化できないお前が行って、今より傷つく可能性だってある」

 心配しているのだ。

 そのことが、よく分かる。

 以前なら、それだけで嬉しかった。

 けれど今は、それに従う理由にはならない。

「傷つくかもしれません」

「だったら――」

「でも、自分で選んで傷つくなら、少なくとも納得できます」

 カイラスが黙る。

「昨日まで私は、誰かに選んでもらうことばかり考えていました。家族に必要とされること。あなたに妻として選ばれること。それがなくなったら、自分には何も残らないと思っていたんです」

「そんなことは――」

「そう思わせたのはあなた一人ではありません。私自身も、そう思い込んでいました」

 だからこそ、責めるだけで終わりたくなかった。

「一度、自分で選んでみたいんです」

「俺を置いて?」

 その言葉に、ミレイアは息を止めた。

 カイラスも、言った後で気づいたらしい。

 昨日、自分から捨てたのに。

 それでも彼の口から出たのは、「俺を置いて」だった。

 ミレイアは少しだけ笑った。

 悲しい笑いだった。

「先に置いていったのは、あなたですよ」

 カイラスの顔が歪む。

「……分かってる」

「なら、行かせてください」

「戻ってくるのか?」

 その質問には、すぐに答えられなかった。

「分かりません」

「ミレイア」

「嘘をついて安心させることは、もうしたくありません」

 カイラスは拳を握った。

「俺は……」

 続きは出てこなかった。

 ミレイアも待たなかった。

「元気で」

 たった三文字に近い言葉では、あまりにも足りない。

 七年分の思い出。

 初恋。

 期待。

 失望。

 まだ残っている情。

 全部を説明することなどできない。

 だから、それだけにした。

 馬車へ向かう。

 カイラスは追わなかった。

 アルドリックの横を通り過ぎる時、彼が低く言った。

「話は終わったか」

「はい」

「後悔は?」

 ミレイアは一度だけ振り返った。

 カイラスが立っている。

 その向こうにはローデン家の騎士たち。

 さらに遠くには、二十年間暮らしてきた王都。

 胸は痛い。

 涙も出そうだ。

 それでも。

「あります」

 ミレイアは答えた。

 アルドリックが僅かに眉を上げる。

「でも、行きます」

 後悔がないから進むのではない。

 後悔を抱えたままでも、自分で決める。

 今は、それで十分だった。

「そうか」

 アルドリックはそれ以上何も言わなかった。

 馬車が動き出す。

 南門を抜ける。

 石造りの城壁の影を通り過ぎた瞬間、ミレイアの胸が強く締めつけられた。

 王都が少しずつ遠ざかっていく。

 カイラスの姿も。

 生まれ育った国も。

 全部が窓の向こうへ流れていく。

 ミレイアは膝の上で手を握った。

 泣かないつもりだった。

 だが頬に温かいものが落ちた。

 隣に座るイレーネは、何も言わず一枚の布を差し出してくれた。

「ありがとうございます」

「国外へ出る時に泣くのは、珍しいことではありませんよ」

「そうなのですか」

「ええ。嫌いな国を出る人でも泣くものです」

 ミレイアは涙を拭きながら、少し笑った。

「私は、この国を嫌いではありません」

「でしたら、なおさらでしょう」

 その言葉に救われた。

 嫌いにならなくても、離れていい。

 傷つけられた場所に、愛着が残っていてもいい。

 人の心は、やはり簡単ではない。

 しばらくして街道が森へ入った。

 王都の城壁はもう見えない。

 ミレイアは窓を閉めようとして、ふと前方へ目をやった。

 王車の周囲を走るノクシアの騎士たちが、突然隊列を狭めた。

 次の瞬間、鋭い笛の音が響く。

「伏せて!」

 女性騎士がミレイアの肩を引いた。

 直後、馬車の側面へ何かが突き刺さった。

 重い音。

 窓の外に一本の矢が見えた。

「襲撃です!」

 馬車が大きく揺れる。

 森の両側から、黒い布で顔を隠した男たちが飛び出してきた。

 ノクシアの騎士たちが剣を抜く。

 ミレイアの心臓が跳ねた。

 国境までは、まだ遠い。

 そして敵は、最初からこの道で待っていた。

 誰かが、彼女を国外へ出したくない。

 その意味を、ミレイアはようやく本当の恐怖として理解し始めていた。

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    第30話 狼王から、契約婚約を提案されました アルドリックが「明日、一つ君に話がある」と言った夜、ミレイアはほとんど眠れなかった。 理由は分かっている。 ローデリクが見つけた適用除外条項。 王族の正式な婚姻予定者として王室簿へ登録された外国人は、外国人特別官の保証人要件を受けない。 つまり。 月律審理官へ戻るための方法が、一つだけ残っている。 王族と婚約すること。 そこまで考えれば、アルドリックが何を話そうとしているのか、想像するのは難しくなかった。「……でも」 客室の寝台で毛布を胸まで引き上げたまま、ミレイアは暗い天井を見つめた。 王族なら誰でもいいのだろうか。 ノクシア王家には傍系もいる。 遠縁の王族を探す方法だってあるかもしれない。 何より、アルドリック自身は国王だ。 王の婚約は、ただの書類上の措置では済まない。 国内政治。 外交。 王位継承。 貴族社会。 全部へ影響する。 だから、まさか。 そこまで考えてから。 橋の上で自分を庇った背中を思い出した。『君に、ここにいてほしい』 昨日。 アルドリックはそう言った。 仕事だけなら、別の人間を探せばいい、とも。「……寝られるわけないじゃない」 結局、夜が明ける頃まで何度も寝返りを打った。 翌朝。 ニーナが部屋へ入るなり、ミレイアの顔を見て眉をひそめた。「眠っていませんね」

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    第29話 誰も私の保証人になれない 国王アルドリック・ノクスの保証申請が却下された日の午後、ミレイアは初めて、自分の名前が書かれていない月律審理官室の扉を見た。 正確には、名前だけが覆われていた。 銀文字で刻まれた《王立法務院特別職・月律審理官》という職名はそのままだが、その下に取り付けられていた「ミレイア・セレス」の名札だけに、白い布が掛けられている。 解任されたわけではない。 任官停止でもない。 それでも、独立した調査権を使えない間は、法務院の規定上、責任者名を表示できないのだという。「……思ったより、嫌ですね」 扉の前で立ち止まったミレイアが言うと、隣のニーナも白い布を見上げた。「取ってしまいます?」「駄目です」「誰も見ていなければ」「もっと駄目です」「では、私が毎朝少しだけめくります」「何の意味があるの?」「ミレイア様のお名前が、まだそこにあるか確認します」 冗談だと思った。 けれどニーナは、意外なほど真面目な顔をしていた。 ミレイアは少しだけ胸が温かくなり、扉を開けた。「なくなりませんよ」「はい」「少なくとも、私が自分から辞めるまでは」「それなら安心しました」 室内は何も変わっていない。 机も。 本棚も。 昨日まで積み上げていた申立書も。 変わったのは、ミレイアがその書類へできることだけだった。 机に着いて一番上の申立書を開く。 王都西区の女性。 婚約契約の解除を申し出たところ、家族から「番候補を拒否するな

  • 『運命の番に捨てられた私、狼王国の婚約契約を裁く女王になりました』   第28話 私には、この国で仕事をする資格がないそうです

    第28話 私には、この国で仕事をする資格がないそうです アルドリックが負傷して三日目の朝、ミレイアはようやく王立医療院から追い出された。 正確には、アルドリック本人と担当医、さらにニーナの三方向から「自分の部屋で眠れ」と言われ、最後にはグレンまで無言で出口を示したので、渋々戻ったのである。「私、そこまで邪魔でした?」 王城の廊下を歩きながら尋ねると、隣のニーナは呆れたように答えた。「邪魔なのではなく、ミレイア様まで倒れたら面倒が増えるのです」「面倒」「陛下と同じ言い方をすると、聞いてくださるかと思いまして」「最近、皆さんが陛下に似てきました」「逆では?」「どういう意味?」「ミレイア様が、陛下に似てきているのかもしれません」 それは少し困る。「どの辺りが?」「仕事を優先して食事を忘れるところです」「それは昔からです」「では元々似ていたのですね」 もっと困る。 結局、昨夜は自室へ戻ったものの、眠ったのは四時間ほどだった。 アルドリックの容体は安定している。熱もない。傷口の炎症も見られず、医師からは「数日無理をしなければ問題ない」と言われていた。 問題は、その「無理をしない」が本人にできるかどうかだった。 今朝も寝台の上で政務書類を読もうとして担当医に取り上げられ、かなり不機嫌になっていた。「陛下の様子は?」 ミレイアが聞くと、ニーナは少し笑った。「朝食を完食なさいました」「本当に?」「はい。ただし蜂蜜を増やすよう要求されたそうです」「元気ですね」「医師も同じことを申していました」

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